装束稲荷神社
所在地 北区王子2−30−14
御神徳 「商売繁盛」「衣装に不自由しない」「火防の神」
神事祭典  初午
 御縁日は7日・17日・27日
 
 
 
 
 
 
 

「王子・狐の行列の会」公式ホームページ
狐の行列2005〜06

装束稲荷神社 1
 今から約千年の昔、この付近一帯は野原や田畑ばかりで、その中に榎の大木があり、そこに社を建てて王子稲荷の摂社として祀られたのがこの装束稲荷です。
 この社名のおこりとして伝えられるところによれば、毎年12月の晦日の夜、関東八カ国の稲荷のお使いがこの社に集まり、ここで装束を整えて関東総司の王子稲荷にお参りするのが例になっていて、当時の農民は、その行列のときに燃える狐火の多少によって翌年の作物の豊凶を占ったといいます。
 その後、明治中期に榎の大木は枯れ、土地発展に伴いその位置も、現王子二丁目停留所となり、社はその東部に移されました。
 昭和20年4月13日の大空襲の際、猛烈な勢いで東南より延焼してきた火災をここで完全に食い止めて、西北一帯の住民を火難から救ったことは有名な事実です。

 この霊験あらたかな社が余りにも粗末であったので、地元有志を中心に多数の信者各位が協力し現社殿を造営しました。
 この装束稲荷は商売繁盛の守護神のみならず、信心篤きものは衣装に不自由することなく、また火防の神としても先述のとおりで信者の尊崇の高いところです。
昭和29年12月吉日・装束稲荷奉賛会「装束稲荷の由来」案内板より

安藤広重「王子装束ゑの木 大晦日の狐火」
装束稲荷神社 2
 かつてこの辺りは一面の田畑で、その中に榎の木がそびえていました。
 毎年大晦日の夜、関東各地から集まって来た狐たちが、この榎の下で衣装を改めて王子稲荷神社に参詣した。
 この言い伝えから、榎は装束榎と呼ばれていました。狐たちがともす狐火によって、地元の人々は翌年の田畑の豊凶を占ったそうです。
 江戸の人々は、商売繁盛の神様として稲荷を厚く信仰しており、王子稲荷神社への参詣も盛んになっていました。やがて、王子稲荷神社の名とともに王子の狐火と装束榎のいいつたえも広く知られるようになり、広重の錦絵の題材にもなりました(左画像)。
 昭和4年、装束榎は道路拡張に際して切り倒され、装束榎の碑が現在地に移されました。後に、この榎を記念して装束稲荷神社が設けられました。

 平成5年からは、王子の狐火の話を再現しようと、地元の人々によって、王子「狐の行列」が始められました。毎年大晦日から元日にかけての深夜に、狐のお面をかぶった裃姿の人々が、装束稲荷から王子稲荷までの道のりをお囃子と一緒に練り歩く光景が繰り広げられます。
平成9年3月・東京都北区教育委員会「王子の狐火と装束榎」案内板
 ブロンズのスタイリッシュおキツネさん、です。ご当地の石屋のスズキさん作……ちゃんと名前を聞かねばorz 素材がよく活かされてて、キツネのしなやかさが存分に表れていますね。これなら垂直5mくらい跳べそう。
 イベント「狐の行列」は平成にはじめられた行事ですが、都内の地域活性の取組みでこれほどの成果のあがっているものは稀です。平成11年に地域づくり団体自治大臣表彰もうけています。

 装束稲荷神社(装束榎)は案内板が2つありましたので、両方それぞれ抜粋してあります。近世から伝説があって石碑があって、まして江戸で稲荷祠がないはずもなかろうと思いますが……北区教育委員会の案内文だと微妙です。調べたらUPしよう。
 右は「稲荷ガード」と名付けられた線路下を貫く歩道。これを見つけると装束稲荷⇔王子稲荷のハシゴが快適になります。

 上のことを書いてからしばらく経ち、昨日偶然、『東都名勝図絵』(著者・出版年等不明)という写真集を見つけました。勘のイイ方はすぐ気づきますよね。タイトルがやたら紛らわしくて、手が伸びました。
 当書は江戸名所図会の挿絵と比較して各地を訪ねたもので、文面から大正のなかばから後期に作成されているもののよう。
 「王子装束榎狐火」として、右の画像がありました。伝承の装束榎は明治に枯れはしたものの、残った根元が大正頃までは残されていたらしく、それがこの写真です。
 根の手前に見えるものは祠のようです。コレが装束稲荷の元となる社ではなかろうか? 『東都名勝図絵』にはこれについて何も記述がなく、それ以上のことは分からない。


LAST UPDATE 2006/2/27