王子稲荷神社
所在地 北区岸町1−12−26
御祭神 宇迦之御魂神
宇気母智之神
和久産巣日神
神事祭典  1月1〜3日 柴田是真作「茨木」扁額公開
 2月初午の日  例祭 (「茨木」公開)
12月31日  装束稲荷より「王子狐の行列」
 
 
  狐の行列に参加してみました

王子稲荷神社
 王子稲荷神社は今から一千年の昔「岸稲荷」と称してこの地にまつられたお社で、社記に
  「庚平年中、源頼義、奥州追討の砌り、深く当社を信仰し、関東稲荷総司と崇む」
 と伝えており、西暦1060年の平安中頃には相当の社格を有していたものと考えられます。
 元享2年(1322)に領主豊島氏が、近隣の地に紀州の熊野神社を勧請し王子神社を祀った処から、地名も王子と改まり、当社も王子稲荷と改称されました。
 小田原北条氏は当社を深く尊崇し朱印状を寄せており、江戸時代には、徳川将軍家の祈願所と定められて大層栄えました。
 代々の将軍の崇敬は極めて篤く、社参は勿論、三代家光公は寛永11年(1634)社殿を造営し正遷宮料として金五拾両、その他諸道具一式を寄進され、次いで五代綱吉公は元禄16年(1703)に、十代家治公は天明2(1782)年にそれぞれ修繕を寄進され、十一代家斉公は文政5年(1822)に社殿を新規再建されました。八棟造り極彩色の華麗な社殿は文化文政時代の粋を伝え、当時の稲荷信仰の隆盛を偲ばせるものでしたが、昭和20年4月13日の空襲によって本殿等大破しました。
 また、江戸時代「神仏習合時代」は「新編武蔵風土記」「江戸名所図会」等にも「本地は聖観世音、薬師如来、陀枳尼天なり」と記されています。明治維新まで禅夷山東光院金輪寺が別当として、王子権現(王子神社)と共に管掌し、住民は「王子両社」と称して等しく氏神として崇めてきました。禅夷山東光院金輪寺は明治維新後に二坊を残して廃寺となりました。
 当社へは遠方よりの参拝者が多く、諸方の街道筋に「王子いなりみち」という標石や石灯籠が立てられました。
 昭和35年に本殿を再建しましたので、現社殿の拝殿幣殿は文政5年の作、本殿は昭和の作ということになります。昭和62年には165年ぶりに社殿の総塗替が行われました。

 境内は台地の中腹約二千坪ですが、昔はこんもりとした杉山で昼なお暗く、山中には沢山の狐が安住し神使として大切にされていました。その跡はいまも「お穴さま」として保存されています。狐にちなむ伝説は数多くありますが、「王子の狐」の落語は当時の模様をよく伝えています。
 又、「新編武蔵風土記」「江戸名所図会」「東都歳時記」に記載する「毎歳十二月晦日の夜、諸方の狐夥しくここに集まり来る事、恒例にして今に然り。その灯せる火影に依って、土民、明年の豊凶を卜す。云々」という伝説は最も有名で、「装束榎」は、これらの狐が身支度をした処と伝えられる場所で、その跡には「装束稲荷」の祠が建てられています。
 徳川将軍家代々の厚い保護と共に、大老田沼意次が立身出世したのは屋敷に稲荷が祀ってあったからという評判もあって、庶民の間に稲荷信仰が大層盛んになり、中でも王子稲荷の「商売繁盛」「火防せ」の御神徳は広く知れわたるところとなりました。江戸中期より二月初午には「火防守護の凧守」が授与されるようになり、これを祀ると火難を免れ、息災繁昌するとて、社頭は賑い、縁起の凧を商う凧市が境内で開かれるようになり、東京名物となっています。奴凧が御守になっている由縁には、江戸期の火消しの印半纏と奴凧の姿が結びついたものとか、或いは、凧は風を切るという処から火事を防ぐ御守として採り上げられたものと伝えられています。
(王子稲荷神社社報「王子稲荷由緒記」より抜粋)

 王子には狐のはなしが多数あります。落語にもなっている「王子の狐」は噺家によるアレンジもあるようですが、『甲子夜話』にて「最近のこと」としてその見聞が収められています。

 乗物町の乗物師の新助なる者が王子稲荷に詣でようと田を行くと、傍らの草むらに狐が化けるところを見かけました。そのまま行くに、後から娼妓がやってきた。これは先刻の狐に違いないと思っていると、「同行の客とはぐれて捜しに行くのですが、連れていってもらえませんか」と言う。新助は快諾して「ならば一緒に行きましょうか」と、王子村に名高い料亭「えび屋」に誘って座敷に上がると数品の肴をたのんで、娼妓と盃を傾けました。
 新助が厠にいくと出て行って、娼妓は一人座敷にいましたが、いつまで待っても帰ってこない。店の者もそれを不審に思って娼妓に声を掛けると「つれが厠に行っているので」と言う。ならばと厠をのぞいても誰もいない。娼妓しかいないのだから酒代を払えと迫ると、何とも答えない。腹を立てた店の者どもが「払わぬならばブちのめせ」と責め立てると、娼妓に毛生え、尾が出、狐となって逃げていった。店の男どもが打ち殺してしまえと追って出ようとしたところ、店主が聞きつけて「王子の神かもしれないぞ」とこれを制した。
(『甲子夜話』巻21−29)

 落語の噺だと狐を騙す男が二人連れになっていて、笑いどころも増えています。落語ではこのあと、「狐を化かすもんじゃあないよ」と諭された男が卵焼きを持って狐の穴に詫びに行くという話に続きます。そのときは舞台となる料亭が「えび屋」でなく「扇屋」になります。
 『続甲子夜話』巻17に「落咄百節」とある中に、落語と同様に手土産を持ってゆくサゲに至るものが紹介されています。こちらは主人公が侍で、王子稲荷の山中に寝ていた狐に「権助、権助」と呼びかけて、狐は「俺を権助なる者と間違えているな」と、狐の姿のまま出掛けてしまいます。舞台はやはり海老屋。饅頭を手土産に様子をうかがいにいくと、母狐が子狐を諭して「食ふべからず。おそらくは馬糞ならん」と。更に『甲子夜話三篇』巻72-10にもほぼ同様の話が再登場しており、主人公が立具屋の若き男であるなど小さな違いはありますが、同じ筋。全部まとめて仕上がったのが、現在に伝わる「王子の狐」。


 ちょいとコワモテのおキツネさん。左右「子と玉」です。しばらく睨みあっていると、愛嬌がみえてくる感じですね。おキツネさんとしては大柄、台石が低いので通り過ぎてしまう人も多いかもしてませんが、デカイです。毛並を表現した縞状の模様・子ギツネの四肢・歯列までもが彫り込まれた力作。
 おっぱい6つあり。ええ、前掛けくらいめくりますともw 慌ててダンナのほうに戻りましたが、こちらはシンボルなし。たまについてるんですけど、雌のみというのは珍しいかも。
左(雌)
玉と子 玉と子
文久3年(1863)9月吉日

玉と子 玉と子
宝暦14年(1764)4月吉日
八甼堀 石工 太郎助

台座の幅も違う
 ずっと悩んでいたんですケド、左右別ですね。「見れば分かるだろ」というツッコミが聞こえそうですが、「ひょっとして……」って思っていたんです。台石は左右対、これは間違いない。残存数の少ない「宝暦」の作が二体、それぞれ一つずつ残る、っていうのも異常だと思うんです。作風は両方ともこの年代。でもこの二体、あちこち違う……というか、共通点はだいたいの「大きさ」くらいしかない。両方同時同作者の作ではない、ハズ。

昭和29年2月吉日
 戦後の作、険しい眼差しは何に対して向けられたものでしょうか。

 「宝暦11年(1761)造立 文化9年(1812)6月再建・牛込榎町 石工 塩谷仁兵衞」
 やや細身の印象が否めませんが、燃え盛るような尾、透かし彫りの台石と、文化・文政期の石工の高い技量に驚かされます。
 ここ王子稲荷は奉献者が各地から訪れています。イキオイ、奉献についてもそれぞれの土地の石工が彫刻に当たっています。

本宮
 拝殿をぐるっと廻って奥へ進みますと、「本宮」があり、奥に末社と「願掛けの石」。見上げたところに「狐の穴跡」があります。
 末社は三社合祀で「亀山稲荷神社」「嬉野森稲荷神社」「北村稲荷神社」の名が見えます。

なし なし
享和2年(1802)7月吉日
 いますね、こういうジイチャン。ふだんワガママ勝手で、孫にはメロメロ。そんなイメージです。ジイチャンと決め付けていますが、バアチャンかも。今回は雌雄の別がピンと来なかった。

阿(補修)
なし なし
玉(補修)
明和元年(1764)11月吉祥日
本材木町 石工 上總屋治郎
 腰の低いおキツネさん。顔がやや前に下がっているせいだな、きっと。やさしげです。
 いくらかこちらに振り向いてきている事が見てとれます。これ以前のおキツネさんは正面を向いているのです。

狐の穴跡
 中腹に社を構える王子稲荷神社では、最奥の「狐の穴跡」は石段の上。小さなおキツネさんが一対、ちょこんと座っていました。
 狐おらんかなぁ
……

境内社 市杵島神社
 宝暦11年(1761)12月吉日・浅草 石工 橋本権巧(?読めず)。
 奉献者がわが町の石工の作品を奉献する場合は「作ってから持ってくる」のか「作者がこっちに来て製作する」のか? 持って来そうな……きっと、ものすごく重いですよね。
 こちらは神社に併設の幼稚園内にあり、園が休み(基本的に日曜)のときのみ参詣できます。


LAST UPDATE 2006/3/13