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半田稲荷神社
半田稲荷神社の始めは、社記によると和銅年間(708〜714)とも永久年間(1113〜17)のこととも云われております。しかしながら延享4年(1747)火災にかかり多くの什宝、記録を失くしました。社宝として建武2年(1335)の碑、享徳4年(1455)古河公方の願文を蔵することによっても創立の古いことが察せられます。当社は古河公方として関東に雄飛した足利成氏の祈願所です。
社殿は延享4年火災により焼失後、寛延2年(1750)ふたたび造営されました。これが江戸名所図会に載せるところです。現社殿は、その後弘化2年(1845)尾州家の立願によって造営され、上棟祭には徳川慶勝公以下家臣列して盛大に行われたと、社蔵の『尾州家黒船警護祈願次第記』に記されています。
江戸時代から非常に栄え、享保年間(1716〜35)より文化年間(1804〜17)の頃、特に信仰者が増加して、諸藩の士をはじめ多くの講中を中心に近県近郷にいたるまで常に参詣の絶えることがなく賑わいました。このことは江戸時代の地誌・随筆等に多く見ることができます。また昔から小児の麻疹・疱瘡の守護神、婦人の安産を願う神と信仰されました。
当時「願人坊主」という者が、真っ赤なあかねの木綿の法衣を裾短く、同じ頭巾の鉢巻、同じ脚絆、すべて真っ赤な衣装で、「半田稲荷大明神」の赤い幟を担ぎ、胸に引き換えの白狐を入れた小筐を掛けて、足拍子おもしろく「葛西金町半田の稲荷、疱瘡もかるい、麻疹もかるい、運授・安産御守護の神よ」と節回しおもしろく謡い踊りつつ江戸市中から全国を廻って歩いたといいます。このことは芝居等にも演ぜられ、明和3年(1766)江戸市村座で『江戸名所柳島通』との題名で上演され、天明4年(1784)に大坂角座で四世市川団蔵により歌舞伎芝居として上演されました。舞踊の名手三代目坂東三津五郎が文化10年(1813)に初演した十二ケ月の所作事『四季詠寄三大字』の二月の部で踊られ、人気を呼び、錦絵にも描かれました。
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